平成17年9月定例会産業経済委員会 10月7日


◆石井修委員
この間民間放送のテレビ番組を見ておりましたら、政府の与党と野党、1段目の席が与党議員で公明党の
方がおられて、上段の席には野党議員がおられて、国でこれから様々な事業を見直すのに、あなたは国会
議員として何を最初に手掛けますかというものが出ていました。公明党の議員でよくテレビの討論会で出
てくる議員でしたが、その方が一番最初に上げたのが、土地改良事業の見直しということでした。国会議
員でしかもテレビにしょっちゅう出たり、ある意味においては公明党の政務調査会のトップかナンバー2
くらいの方だと思うのですが、年は40歳前後ではないでしょうか。そういう国政に身を置いているかたが
たが、最初に取り上げる見直し事業は何にしますかと聞かれて、土地改良事業と言われたのです。我が新
潟県の、農業大県新潟県という立場から見て、今国が進めておりますヨーロッパ並みの規模の農業と言っ
た方がいいでしょうか、そういうものを推し進めている窓口の農地部として、そういう意見が国政におけ
る与党議員の中から出てきているということに対して、どのように思われますか。民間放送で言ったこと
ですから大したことないと思うのかどうか分かりませんが、どのように感じられますか。

◎農地部長
土地改良事業を見直すという御意見の国会議員がおられたということですが、どのように見直されるかと
か、どういうことを思われての取上げ方かということがよく分からないわけですが、もっといい方に持っ
ていくとか、そういうことが分からないものですから、よく申し上げられないのですが。少なくともこれ
まで各関係方面、もちろん国会議員方にも、土地改良事業につきましてこれまでの取組、また今の必要性
とか事業の効果について、相当細かくPRを進めてきております。少なくともそういうことは理解された
うえでの見直しというふうに言われていたのではないかと思いたいのですが。もし御理解が足りなければ、
更にそういうPRなどに力を入れていかなくてはならないのではないかと思っています。

◆石井修委員
小さい政府を作るためにということが恐らくメインテーマであったのですから、決して土地改良事業を見
直して、いい方向に持っていこうという番組ではなかったことは事実であります。あれは四、五日前の民
間放送の番組だったと思いますので、説明員側に座っているかたがたの中にもその番組を見た方がいると
思いますが、公明党の政策の中で、そういうことがもしうたわれているのだということになると大変なこ
とになりますので、農地部としても研究の課題にした方がいいかなと思いましたので発言をさせてもらい
ました。それからもう一つ、今日、この資料を見せていただきましたけれども、ここだけではなくて、私
どもの方もこういう被害は一杯あるわけです。この間ある土地改良区の理事長に案内をされまして、現場
へ見に行きましたら、昭和49年に用水路を、加治川という川がございますが、そこの川床を2メートル掘
って左岸から右岸にサイホンという形で水を通しまして、左岸側の 500町歩の用水を確保するということ
で、大きな加治川の左岸側から下2メートルを掘って右岸側に通して 500町歩の用水を出していると。た
しか昭和49年にやったのだろうと言われておりましたけれども、約30年たちましたら、そのサイホンの護
岸をしている部分が全部取れてしまいまして、丸ごとコンクリートが出てきたと。その高さが、2メート
ル掘って埋めたというのですから、それが表に出てきたということは2メートルの、中傾斜地と急傾斜地
の間くらいの地域ですけれども、その川床が2メートル下がっていると。
 先ほど小野(忍)委員がおっしゃいましたように、この蒲原平野というのは、この 1,000年の歴史の中
でそういう河川が削られながら大地が変わってきたという、正に水との戦い、治水、利水、かんがい事業
を進めてきたと思うのです。それが、話としては分かっておりましたけれども、現実にそういう中傾斜地
の河川が30年で2メートル川床が下がるということを見まして、やはりこの大地というのは、上流部分か
ら岩が削れて、砂利になって、砂になって大地にみんな流れてきて、今日のこの大地ができたのだなと実
感しました。技監が新発田農地事務所長をされていた時に、たしか十何年前ですか、中国の視察団が新井
郷川の排水機場に行って、私どもの地元ですので中国のかたがたと同伴しろということで、あそこに行っ
たことがありました。西暦1090年くらいですか、あそこは海だったと書いてありました。正に海だった所
がこの 1,000年の歴史の中でこれだけの平野ができたのかなと、なかなか信用できなかったのですけれど
も、この間、30年間で中傾斜地の河川が2メートルも川床が下がっているということを見て、やはり自然
の力はすごいものだなと感じたのです。
 その加治川に入ってくる支流と言いますか、河川が、6月27日、あるいはその後の集中豪雨によって中
小河川の護岸がかなり洗われているわけです。30メートルにわたって洗われている。それはU字溝ではな
いですから、護岸ですから、川床はそのまま普通の砂利、砂なわけです。集中豪雨に遭うと、護岸を新し
いものでやってもそれだけ降れば一挙に護岸がなくなってしまうわけです。そういうものを現地で見まし
て、長い歴史の中、あるいは短期間でも、例えば私どもの加治川は昭和41、42年の羽越大水害の連年水害
の時に、昭和41年に土手を直したのですけれども、翌年また大水が出てその土手が切れたということで、
これは農地部ではありませんけれども、土木部の県の役人がその地区の農家から訴えられて、加治川豪雨
の20年裁判というものがありました。ああいうものを見ていると、人災なのか天災なのかということにな
るのでしょうけれども、現実に最近よくある集中豪雨を見ていますと、ああいう急傾斜地の急峻(きゅう
しゅん)な河川の護岸というものは、ただのり面を留めるだけで果たしていいのだろうかと、非常に疑問
に思うのです。各箇所、カーブの所、土手を守るために護岸をするのですが、やった所の下が掘られるわ
けですから護岸が崩れてくると。そういうものを見ていると、確かに災害で大変だと思うのですけれども、
護岸をやっても意味がなかったのではないかと。相当な税金を投入して護岸工事をやったわけですけれど
も、どうせやるなら、下から掘られないような工事の方法というものも本来考えていくべきなのではない
かと思いました。農地部には余りそういう河川の問題はないかもしれませんので、今突然私が申し上げて
即答はできないかもしれませんけれども、ああいう工事のやり方というものの見直しと言いますか、そう
いうものはいかがなものだろうという疑問があるものですから、少しお伺いしたいのですが、どなたか答
えられる方はいらっしゃいますでしょうか。

◎農地部長
豪雨時に、今ある中小河川の護岸が基礎から洗掘されるというような状況があるということでございます。
具体的な状況、該当地区の状況は分からないのですが、一般的には公共事業でそういう建造物を建てると
きには、護岸等については当然想定されます流量を想定して、それに対して安全に流下できるような構造
になるように設計して建設されているものだと思いますので、そういう中でも洗掘が起こったということ
は、その想定雨量以上の雨もあって流量が出たのではないかと思います。

◆石井修委員
集中豪雨で我々には考えられないような災害というものはあるわけですから、それはそれでいいと思いま
す。大きな河川のものは農地部ではなくて土木部だろうと思いますので、別の機会に質問したいと思いま
す。私は産業経済委員会にずっと長く在席させていただいて、いろいろなことを言ってまいりました。今
申し上げた新井郷川の排水機場、 1,000年の歴史があってこの大地ができたのだなという話をしましたが、
正に徳川幕府に移行する前に、この地区を治めた豪族、様々あったわけですけれどもその当時の古地図を
見ますと、紫雲寺潟あるいは塩津潟と言いましたけれども、あれは今全くないですね。名残のあるのが福
島潟で、福島潟はあの何倍も大きかったわけです。その福島潟と塩津潟はほぼ大きさが同じで、川によっ
てそれがつながっていたということです。その当時の私どもの町というのは外様大名でありまして、周辺
はすべて譜代大名でありました。正にそこで、外様でありながら 271年間どこへも領地替えされなくて、
溝口という家が治めてきたのですけれども、開墾開田によって上納金という米を納めることによってほか
の地区に移封されずに、ずっと江戸時代ここに藩を張っておられたと思うのですけれども、それが開墾開
田によってなされたわけで、治水、利水、開墾開田ということになるわけです。
 そういう当時の水田に提供した水、いわゆる水源面積、この間私はあるデータを見ましたら、この間の
地震で初めて行ってよく分かったのですが、渋海川、越路町のあの渋海川の水源はとんでもないほどある
のです、水がですね。私どもの川というのは、全く県下でも最低のデータでした。前に私はこの委員会を
通じて、ほ場整備をやる傍ら水をよく使うような美田を作っているわけですけれども、昔は用排水路が一
緒でしたが今は用水路と排水路は別ですから、排水の水をまた下流部分が使うということはないわけでし
ょうけれども、水をよく使うようになったにもかかわらず美田を作りながら、ほ場整備をしながら、もう
一方で用水確保を怠ってきたのではないかという議論をしておりました。今は、少し私自身が反省をしな
ければならないなと、反省をしているのですが、人の手によって田んぼを増やせば、今まで例えば 500町
歩しかない所を山の水源が満たしてくれていたものが、 1,000町歩、あるいは 2,000町歩に田んぼを増や
していくと、毎年雨の降る量が決まっていれば当然水の量が少なくなるというのは当たり前で、本来的に
私の言ったほ場整備をするなら片方で水を確保しろという言い方以前に、ほ場を増やしてきたのだから、
整備したから水が足りないのではなくて、増やしてきたのだから根本的に水が足りなかったのだなという
考え方に今なっているのです。
 その水田に対する水源、水源の面積というものは標準的にどれくらいなければならないとしているのか。
例えば、福島潟はかなりもめましたけれども、福島潟を埋め立てて田んぼを造ったわけです。そういうも
のを企画して造るときに、水源の確保ということを必ず頭の中において造ったものかどうか。あるいは、
これだけの水田にはこれくらいの水源が最低必要だという基準があるのなら、その部分を聞かせていただ
きたいと思います。それで質問を終わります。

◎農地部長
今水田で使われている中には、開墾で水田として現在も利用されている所があると。恐らく当初水田で使
われた所はもともとは、新潟県の地形ですので、排水も必要な状態です。そういう中で、稲はそういう所
の方がむしろ育ちやすいという状況になるかと思いますので、必ずしも開田のときに用水の手当てまで、
もちろん通常時の小河川等から水路を引っ張ってということはあったと思いますが、正確に必要量まで手
当てして、必ずしもそういう開田がなされていなかったということはあるかと思います。
 ただ、今これだけ私どもが事業をやっている際には、これまでに積み重なった技術から、どれだけこの
地域で、例えば水田についてほ場整備を行えばどれだけの水量が必要になるであろうと、それで、それに
必要な水源が今どれだけあってどれくらいの不足があるか、そういうことはもちろん事業にかかる前に計
算して、全体として必要な水が確保されるように事業するということが通常かと思っております。
 ただ、事業の仕方は、ほ場整備事業と同じ地区に対して、かんがい排水事業とほ場整備事業と両方で全
体として、そういう生産基盤が整備されているようなときに事業間で時期に差があってほ場整備が先に進
んだときに、それだけの水源が渇水年では不足するという状況も想定されております。また、水路施設が
例えば老朽化等してきまして十分な水量がほ場まで送水できないような状態になったようなときには、こ
れはこれでまたそういう不足も生じてきているかと思います。